何のトラブルがあったやら。
階下から、父や義母の声が聞こえた。義兄の激しい反論のような声も。
いい気味。
緩は鼻で笑う。
そうやって、仲違いでもしていればいいんだ。
だが、何を言っていたのかはよく聞こえなかった。
聞こえなかったんじゃなくって、聞きたくなかったの。だって今、いいトコなんだもんっ!
階下から親があがってくるような気配はない。
ようやくの静寂。安堵する。
振り返る先で、男性が笑う。緩も自然と笑ってしまう。
誰にも見せたことのない、僥幸を含んだ極上の笑顔。
「君の心は美しい。清らかで、僕は誰よりも知っている」
そうだ。私は本当は優しくて、清らかで純粋。ただ、誰にも認められていないだけ。
その事実に腹が立つ。
何も知らない、無知で乱暴な兄が快く認められる。その事実が、ひどく不愉快。
どうしてこの私が無碍に扱われ、粗暴な義兄が笑えるのか。
廿楽先輩の件だってそうだ。彼女の、山脇瑠駆真への恋心など、私には微塵も関係ないのに。
だが今、目の前の男性が優しく告げると、怒りなど、瞬時に失せる。
「だからこそ、君がこんな扱いを受けるなんて、僕にはとても許せないんだ」
一瞬にして、緩のすべてが至福で満たされる。
怒りも、憤りも、すべてが取り払われ、ただ穏やかな幸せだけが、緩を包む。
自分は認められていない。
でもいいの。
緩はゆっくりと瞳を閉じた。満足そうに口元を綻ばせる。
山脇瑠駆真の事だって、きっと何とかなるはずよ。だって私、何も悪いコトしてないもの。
そうよ、私は何も悪いことはしていない。きっと、必ず私のしている事は正しくなるはずだ。そうに決まっている。
だって私は、間違ってないもの。
そう言い聞かせるたび、自分の身が浄化されるような心地良さ。
こんな私を、誰も認めてはくれない。
でもいいの。誰にも認めてもらえなくていい。
だって私は、そこまで傲慢じゃない。
それにきっと、最後はきっと、私が笑う。
少女は品良く片手を口に当てる。
「羨ましいですわ」
自分の留学話に添えられる、華のような笑い声。
そのどこまでが本物なのか?
内心で薄ら笑いながら、小童谷陽翔は帆立貝のポワレを口に運ぶ。
遠く市街を一望できる高級レストラン。同じテーブルを囲むのは、すべて唐渓の女子生徒。着飾り、粧し込み、煌びやかに己を披露する。
陽翔の帰国を祝うため、一人が勝手に予約していた。まぁ、予定もなかったから、断ることもしなかった。
家に帰っても待つのは家政婦だけだし、なによりこういうのは印象が肝心だ。
唐渓でのこれからの生活環境を整えるには、帰国後早々の、こういった時期の体裁が肝心なのだ。
転校生なども、第一印象で学校生活がかなり決まる。
キャビアの添えられたパプリカとオマール海老のマリネを完食し、満足気に笑いかけてくる隣の少女。
高校生などが利用するには場違いかとも思えるが、きっと会計は親にまわるのだろう。唐渓の生徒とは、そういうものだ。
また、そうやってねだる子供が、親にはかわいい。"愛嬌"や"可愛げ"は、生活必需品。
陽翔は思いっきり帆立貝を飲み込んだ。
一年前、イギリスへ留学する前と何も、一つも変わっていない。
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