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【アラベスク】  第7章 雲隠れ (後編)



第4節 月明かりはいらない [5]




 何のトラブルがあったやら。
 階下から、父や義母の声が聞こえた。義兄の激しい反論のような声も。
 いい気味。
 緩は鼻で笑う。
 そうやって、仲違(なかたが)いでもしていればいいんだ。
 だが、何を言っていたのかはよく聞こえなかった。
 聞こえなかったんじゃなくって、聞きたくなかったの。だって今、いいトコなんだもんっ!
 階下から親があがってくるような気配はない。
 ようやくの静寂。安堵する。
 振り返る先で、男性が笑う。緩も自然と笑ってしまう。
 誰にも見せたことのない、僥幸(ぎょうこう)を含んだ極上の笑顔。

「君の心は美しい。清らかで、僕は誰よりも知っている」

 そうだ。私は本当は優しくて、清らかで純粋。ただ、誰にも認められていないだけ。
 その事実に腹が立つ。
 何も知らない、無知で乱暴な兄が快く認められる。その事実が、ひどく不愉快。
 どうしてこの私が無碍(むげ)に扱われ、粗暴な義兄が笑えるのか。
 廿楽(つづら)先輩の件だってそうだ。彼女の、山脇瑠駆真への恋心など、私には微塵も関係ないのに。
 だが今、目の前の男性が優しく告げると、怒りなど、瞬時に失せる。

「だからこそ、君がこんな扱いを受けるなんて、僕にはとても許せないんだ」

 一瞬にして、緩のすべてが至福で満たされる。
 怒りも、憤りも、すべてが取り払われ、ただ穏やかな幸せだけが、緩を包む。

 自分は認められていない。
 でもいいの。

 緩はゆっくりと瞳を閉じた。満足そうに口元を(ほころ)ばせる。
 山脇瑠駆真の事だって、きっと何とかなるはずよ。だって私、何も悪いコトしてないもの。
 そうよ、私は何も悪いことはしていない。きっと、必ず私のしている事は正しくなるはずだ。そうに決まっている。
 だって私は、間違ってないもの。
 そう言い聞かせるたび、自分の身が浄化されるような心地良さ。
 こんな私を、誰も認めてはくれない。
 でもいいの。誰にも認めてもらえなくていい。
 だって私は、そこまで傲慢じゃない。
 それにきっと、最後はきっと、私が笑う。





 少女は品良く片手を口に当てる。
「羨ましいですわ」
 自分の留学話に添えられる、華のような笑い声。
 そのどこまでが本物なのか?
 内心で薄ら笑いながら、小童谷(ひじや)陽翔(はると)は帆立貝のポワレを口に運ぶ。
 遠く市街を一望できる高級レストラン。同じテーブルを囲むのは、すべて唐渓の女子生徒。着飾り、(めか)し込み、煌びやかに己を披露する。
 陽翔の帰国を祝うため、一人が勝手に予約していた。まぁ、予定もなかったから、断ることもしなかった。
 家に帰っても待つのは家政婦だけだし、なによりこういうのは印象が肝心だ。
 唐渓でのこれからの生活環境を整えるには、帰国後早々の、こういった時期の体裁が肝心なのだ。
 転校生なども、第一印象で学校生活がかなり決まる。
 キャビアの添えられたパプリカとオマール海老のマリネを完食し、満足気に笑いかけてくる隣の少女。
 高校生などが利用するには場違いかとも思えるが、きっと会計は親にまわるのだろう。唐渓の生徒とは、そういうものだ。
 また、そうやってねだる子供が、親にはかわいい。"愛嬌"や"可愛げ"は、生活必需品。
 陽翔は思いっきり帆立貝を飲み込んだ。
 一年前、イギリスへ留学する前と何も、一つも変わっていない。







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